RSS | ATOM | SEARCH
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

author:スポンサードリンク, category:-,
-, -, pookmark
注釈
 

第二回刊行会ニュースの一への注釈
 私の父高野実は彼の早稲田時代からの師匠だった猪俣津南雄の著作をきちんと出し、世に広めることが念願だった。総評の事務局長をしたりその後もいろいろな雑誌をやって常に労働運動の前線にいた彼はなかなかその仕事に手をつけられなかった。それで、高野の次男である私・津村喬が事務局長になって猪俣津南雄研究会を組織し、古い関係者と新しい研究者を呼び集めて、研究活動を始めたのだった。

第四回刊行会ニュースの五への注釈
 これもあとで読み返したら説明が足りずにわかりにくい。大塚倭文子は18で猪俣の愛人となったが、猪俣が下獄してポーランド人の妻ベルタが帰国するまでは事実上の妻でしかなかった。猪俣の死後一年、その一番弟子だった高野実が倭文子に求愛して、今度は正式に結婚して、兄孟と私が生まれた。高野も伊藤花子と結婚していたが早くから死別していた。だから私が母と言っているのは猪俣のパートナーである。

...

第七回猪俣全集への注釈
 福村書店から猪俣津南雄著作集を出したいという話があって、一年近く研究会を開き、最後には上記のようにまとまったが、福村書店からは突然のキャンセルがあって実現しなかった。盛田書店の盛田勇之進氏が自分の拠点がつぶれて福村の編集長になってからの最初の仕事だっただけに、刊行会と出版社の間に立って苦労された。未だに理由ははっきりしないが、企画が大きすぎるという事だったら主要著作だけ五巻で出すとかさまざまな選択肢があったはずだ。その後『日本プロレタリアートの戦略と戦術』『横断左翼論と人民戦線』の二冊の論集と『窮乏の農村』がそれぞれ別の出版社から出た。

第八回猪俣刊行会の名簿について
 市川氏は当時の総評議長だった。兼田富太郎は副議長だった。黒田壽男、木村喜八郎、穂積七郎は社会党の代議士だった。伊藤清遠は親戚で、高野の最初の死別した妻の兄だったが、大阪を中心に労組活動家として立派な経歴をもっていた。加藤長雄は高野が『国民』という雑誌をやっていたころのスタッフだった。それ以上に高野の意を受けて向坂らの社会主義協会の事務局長をしばらくしていた。玉城素、龍井葉二、藤田悟、羽生幸美らは猪俣研の事務局スタッフだった。

第九回反広告会議について
 反広告会議、広告批評懇談会などいろいろな名前でしていたが、そのうちひとつの名簿が雨に濡れてほとんど判読がむずかしい状態で出てきた。乾かして透かして読んでみるとびっくりするような名前が出てきた。柴邦生は当時原子力資料情報室を一人で立ちあげて膨大な関連資料を集めていた。反広告のほうにも事務局として関わってくれた。いまも反原発一筋である。粟津潔、黒田征太郎、木村恒久、多木浩二、柏木博、マッドアマノ、鈴木均といった人たちはビッグネームすぎて今では一堂に会するのは大変。あ、鈴木さんは98年に亡くなっている。改造社、平凡社と仕事をしてきて日本エディタースクールの創立者で初代理事長だというのは付き合っていた時には知らなかった。粟津さんも2009年に亡くなった。そうだ、多木浩二さんも2011年に。木村さんも2008年。針生さんも2010年。戸井十月は同い年だが去年亡くなった。中島誠さんも本が出続けているからてっきりお元気と思ったが2012年に亡くなった。幸村さんはfacebookでつながっている。黒田さん柏木さん真壁さんなどは遠くから精力的な仕事を見せてもらっている。

author:気功文化研究所・津村喬, category:津村日記, 09:47
-, -, pookmark
スポンサーサイト
author:スポンサードリンク, category:-, 09:47
-, -, pookmark