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日本の歌声

 本棚に前からあったが読んでいなかったものから、山田和秋の『青年歌集と日本のうたごえ運動ー60年安保から脱原発まで』という本を読んだ。『青年歌集』は子供時代の私のバイブルだった。全11巻、隅から隅まで読んで、歌った。引っ越しを重ねるうちになくしてしまい、その後ある出版社からうたごえ運動の歴史を書かないかといわれたとき、『青年歌集』の全巻のコピーをもらった。ぐずぐずと書かないでいるうちにどこかにしまい込んでしまったが、これはまだどこかに入っているはずだ。今でも中央合唱団と引けば出てくる新宿区大久保の住所に二年間くらい通って、アコーディオンを習っていた。小学校三年生の頃で、なんとか弾けるようにはなったがものにはならなかった。だが、この時期に毎年大きな盛り上がりを見せた「日本のうたごえ」の祭典には、何年か聴衆として参加し、大きな影響を受けた。
 山田は1961年に早稲田を卒業しているから、ちょうど10年先輩だ。早稲田大学高等学院から入ったのも同じだ。社会主義研究会などを作る事は当時の学校では不可能だったので「歌う会」ということで14,5名が集まった。
 「ぼくたちは毎週石神井川の土手に集まって、栗山君の指揮で歌うようになった。そのとき歌集として使ったのが、当時歌声喫茶などで流行っていた『青年歌集』だ。『青年歌集』は当時1〜4篇まであり(後に10篇まで出版された[11篇デス])主としてロシア民謡、労働歌から、日本を含めた世界の民謡などが含まれていた」
 「若者よ」とか「われらの仲間」とか歌った。「われらの仲間」はロシア新民謡で、「若者よ」は戦前からの共産党員ぬやまひろしが詞を書いて関鑑子の弟の関忠亮が作曲したもので、やがて拷問でひどい目に合うからからだを鍛えておけ、という凄惨な歌だが、なぜかさわやかな青年の歌として流通していた。
 彼らの学院歌う会は1956年に初めて日本のうたごえ祭典に参加した。8歳の私もこれに聴衆として参加していた。他校とまとめられて高校生のうたごえとして100人くらいで林光の「歌声よ明日のために」とショスタコーヴィチの「ピオネールは木を植える」を歌った。紙パ労連、三池炭坑、全国金属と労組ごとの合唱団が次々に登場して歌った。このころに大流行した「しあわせの歌」に私は当時から違和感があって、三十年後に中央公論に「幸福の強迫観念」を書いた時にこの曲の批判を枕にした。
 山田はそのまま早稲田に入り、劇団自由舞台に入り、日本共産党に入党した。そのころ沖縄出身の学友と出会い、沖縄はアメリカ占領下にあったのだが入党したいといわれて推薦状を書いた。「二人で高田馬場まで歩きながら自然と口をついて出た歌は『沖縄を返せ』だった。この歌をこんなにも身近に感じながら心の底から歌ったのは初めてだった」むろんこの時には「沖縄を返せ」か「沖縄に返せ」など迷う人はいなかった。
 山田がこの本の中で歌詞を並べている歌の一覧を作っておく。
 赤旗の歌、アカシアの雨がやむとき、南葛労働者の歌[琵琶湖周航歌の節で](楽譜付き)、聞け万国の労働者、国際学生連盟の歌、民族独立行動隊の歌、原爆を許すまじ、手のひらの歌、カチューシャ、トロイカ、仕事の歌、若者よ、我らの仲間(楽譜付き)、しあわせの歌、ピオネールは木を植える、晴れた五月、全世界民主青年歌、心さわぐ青春の歌、さらば恋人よ、バイカル湖のほとり(楽譜付き)、沖縄を返せ、平和を守れ、兵隊が戦場に行くとき、ラ・マルセイエーズ(楽譜付き)、インターナショナル(楽譜付き)、ワルシャワ労働歌、ともしび、イムジン河、モスクワ郊外の夕べ、同志は倒れぬ、がんばろう、おお牧場はみどり、どん底の歌、美しい十代、友よ、サマータイム・ブルース、ずっとウソだった[ずっと好きだったの替え歌]、世界をつなげ花の輪に
の38曲。その中で私が楽譜無しに歌えないのはピオネールは木を植える、平和を守れ、サマータイムブルース、ずっとウソだったの4曲である。大部分の軌跡を共有して来たことがわかる。
 山田はロシアでロシア語の雑誌『今日の日本』を出している。そしてもう出番はないだろうと思っていた「原爆ゆるすまじ」等を歌いながら昔の仲間と反福島のデモを繰り返す日々である。

author:気功文化研究所・津村喬, category:津村日記, 13:55
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